韓流ドラマ 全般
概要
韓流(はんりゅう)ドラマの史劇は、明確な流れを記述した史書が残っていないため、かなりおおまかな流れの中に作家の独自の空想がかなり練りこまれて制作されている。そのような事情も知りながら冷静に見ていると意外に面白いと思える作品もある。朝鮮独自の習わしとして考えられている部分はある程度、各ドラマの中でも統一されていて、ドラマの中の真実だと受け止めているのだとしたら、かなり偏った知識として植えつけられることもありそうな内容になっている。韓国内で視聴率が50%を超えることもある史劇ドラマの国民への影響がどの程度のものかは想像にしがたいが、韓国史劇の特徴は以下のようなところにあると思ったのでまとめておく。
- 李氏朝鮮時代の王様は王妃の他、側室と呼ばれる女性との間にも子供を持つことがあり、王子様(男)が世継ぎに関わるため、権力争いは、王妃および側室の間でも自分の子供を持つことに執着され、それぞれの子供や自分自身が偉くなるためにあの手この手で権力を握ろうとする醜い争いに翻弄されることがドラマの流れのほとんどを占める。
- 王様には御医(おい)と呼ばれる専属の医者が付くが、王宮での治療の失敗は厳罰に処され、斬首から流刑まで当然のごとく罰を科せられる。そして、王室の誰かが亡くなった際の医師の名文句が「私をどうか死罪にして下さい!」である。そして王様をみとることになる御医(おい)は王様の人生と共に生涯を閉じるのが習わしであり、王様の勅書(書状による遺言)でもないかぎり斬首になることが当然であると考えられている。
- 王様の意見はかなり重視されるものの王宮の数人の家臣の意見がまとまらなければ、よっぽどのことが無い限りはその意見も汲み取るのが習わしのようで、権力争いの中で家臣に不都合がある内容の王命が下される直前の家臣一同の名文句が「どうか王様、お考え直し下さいませ~!」となる。
- 王様の後継者は主に王妃の子供(王子:大君(テグン))が選ばれることが多いが、王子が幼い場合や未熟な場合には側室の子が選ばれる。王様が存命の間に後継者となるものを(世子)セジャと呼ぶ。その次の候補が世孫(セソン)で派閥争いのために世継ぎは王子様にするべきだというものや、あの側室の子にするべきだという争いが生じる。
- 王妃や側室といった女同志による対立が激しく、人の命を奪うことをなんとも考えない傲慢な権力争いは熾烈極まる。策略が失敗したときの心の荒れ方が所謂「火病」と呼ばれるものにそっくりで、人間とは思えない策略を実行した自身の行いを顧みず、信じがたいような恨みや妬み、怒りをあらわにするのが通常となる。
- 王室の中の格は、王様、王妃、嬪(ピン)、上級側室:淑儀(スギ)、第?側室:淑媛(スグォン)、正一品(チョンイルプム)、従一品(チョンイルプム)、正二品、正三品、正四品、…と位があり、正一品でも王室での役割によって称号が異なるのが特徴。医師だと正一品から輔国崇禄大夫(ホグクソンノプテグ)、御医(おい)/大監(テガム)、内医正(ネイジョン)、僉正(チョムジョン)、判官(パングァン)、直長(チクチャン)、主簿(チュブ)、奉事(ポンサ)、副奉事(フポンサ)、参奉(チャンボン)、医官(イカン)という具合になっている。医療の部門は3つの部署に分かれていて((内医御)ネイオン:王宮の診療、(典医監)ヒョンイガム:医者の選抜・教育や薬剤の管理など、(恵民署)ヘミンソ:都の民の診療)、(三医司)サミサによって構成されている。王室の医官になるには科挙と呼ばれる不定期に行われる試験を受けて合格する必要がある。政府官僚側だと、領議政(ヨンイジョン:総理大臣級)、右議政(ウイジョン)、右賛成(ウチャンソン)、左賛成(サチャンソン)、領中枢府事(ヨンジュンチュブサ)、都提調(トジェジョ)、提調(イェジョ)、副提調(プジェジョ)、吏曹判書(イジョパンソ)、校理(キョリ)、判官(パングァン)、県監(ヒョンガム:各地方の長)、といった位が存在し、官僚になるには大科(テガ)とよばれる試験を受けて合格する必要がある。国のために動こうとする正義役と偉くなることだけを目的とする悪役に分かれる。女の人は別の称号が付与されていて、王妃様専属の医師として御医女(オイニョ)、内医女(ネイニョ)医女(イニョ)、初医女(チョハギ)、医師ではないオツキのモノとしての女性担当として至密尚宮(チミルサングン:王様にお仕えするもの)、最高尚宮(チェゴサングン:各部署におかれる尚宮の長みたいな立場)、尚宮(サングン)という役割があり、薬を煎じる専門の種薬書員(チョンヤクソウォン:薬品倉庫管理)、擣薬使令(トヤクサリョン)や品階の無い書吏(ソリ)といった役割もある。
- イ・サンの時代に両班(ヤンバン)だけが商いをできる制度が廃止されることになっているが、李氏朝鮮時代には両班(ヤンバン)という特権階級が存在し、両班は大科を受けることもできたが両班ではない賤民(センミン)の男にはヤンバンの娘と結婚することもゆるされておらず、罰せられる。見ていると、両班の男は賤民と結婚はできて子をもつこともできるが、結婚しても賤民は賤民のまま、子は賤民となっている。両班(ヤンバン)という特権階級には市場で商売をすることが出来て、賤民は闇市場のようなところで売買をしていたという設定が多々見られる。犯罪者の子供や家族は奴婢という身分で特権階級のある人たちに雇われて、貧しい暮らしをしながら仕えるということをしていたことも伺える。
- 距離は1里という単位が使われ、1里=およそ4kmと考えれば現在の距離感覚に換算できる。
- 度量衡は時代によって異なり現在は1斤=600g、史劇の時代だとだいたいは1斤=222.4g、したがって、100斤は22.24kgで82斤と言われる青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)は18.24kgとなります。
- 捕盗庁(ポドチョン)とよばれる組織が警察にあたり大将(デジャン)・従事官(チョンサグァン)・部将(プジャン)といった格がある。義禁府(ウィグムブ)は現在の公安にあたる組織で提調(イェジョ)・鎮撫・副鎮撫・知事・都事(トサ)といった格がある。。
- あちらの国でも、男は女を金で買う文化はありまして、それが妓楼(ギロウ)、そこで働く女性を妓生(キーセン)と呼ぶ。昔はゴムがないので生中だしっすね。
- 李氏朝鮮時代は朝鮮半島が北と南が同じだったから主に北側では中国との国交の拠点があり、南側には都があったという設定になっていてハニャンが今のソウルにあたるとされている。北ならウィジュ、ピョンヤン、サヌム、ヨンチョン、南側にはハニャンという地名がよく使われる。
- 高句麗(カクリョ、コウクリョ、コリョ)、百済(ペクチェ・くだら)、新羅(シンラ)の時代も描かれるが主に高句麗を中心として描かれるドラマが多く、後に新羅(シンラ)によって統治される歴史的な背景とは異なる高句麗(カクリョ、コウクリョ、コリョ)に対する思い入れの深い作品が多い。
- 韓流ドラマの史劇では、中国の清を舞台にしたドラマもあり、国交があったことや侵攻されたことを背景にした朝鮮半島がチョイ役となっているような設定もある。
- 倭国は歴史的にも文禄の役(ソンジョが王様の時代)で侵攻したことがあることから、主に侵略者として描かれているドラマが多く、倭国と国交によって贈答物があったりする場面も含まれる。日本にも映像が配信されることを配慮しているのかもしれない。(李 舜臣)イスンシンが豊臣氏の攻撃をくいとめたとする逸話になっており、韓国の国内には大きな銅像もあるほど。実際は豊臣氏は大の戦争嫌いとして、日本では有名です。不毛な争いをとめるためになるべく戦わずに天下統一を目指したといっても過言ではないです。当時は世界の領土の8割がスペインの植民地となって支配下におかれていました。アジアは最後の大きな砦であり、中国に兵をおいて、スペインの侵攻を食い止める必要があったため、数万とも言われる大量の兵を船で運び中国に向けて送り出したと考えられています。朝鮮半島はただの通り道です。なるべく戦わない方向で北上したのではないかと考えられます。侵攻されたので、何もしないわけにはいかないですから、兵士同志はやりあったと思います。スペインの侵攻をとめるため、アジアを守るため。日本を守るため。いってみれば太平洋戦争と同じような感じでしょう。国境を越えて議論する技術が無い時代ですから、暴力にまかせることばかりになっていたのかもしれません。情報戦争という戦争が起きたものの、情報社会は実際の戦争を遠ざけるための役割を担っているのだと考えています。もっともっとこの網を世界の人々に届けられたらきっと話し合いで理解できる日もくるかもしれません。
- 李氏朝鮮時代は漢字が使われているため、劇中でも主に漢字が使われるので、現地でもハングル文字での訳がないと理解できない文章がところどころ散見されるが、意外と日本人には意味のわかる漢字もあったりする。現代ドラマになってくるとハングルだらけになる。第4代王朝の王様であったイド(世宗:セジョン)大王によって訓民音制という通達により、周到に準備していたハングル文字が発生したと考えられていますが、普及するのはずっとずっと後ですので、朝鮮王朝ドラマではハングルは登場しません。現代の韓国人のどれくらいの人がどれくらい漢字をしっているのかは、よく知りませんが、かなり難しいものだという認識をほとんどの人が持っていると聞いています。ハングルにはよく使われるものから滅多に使われないものまで含めると、ひらがなに比べてかなり多い組み合わせになる文字種が存在します。言葉を変えるという事は民衆にとって魂をすげかえるようなものですから相当に難しいことだったはずだと考えるようになりました。この認識が正しいかどうかはよくわかりません。
衣装や装飾がとても綺麗だが、当時にあのような装飾技術があったとは考えにくいので、何が本当なのか?現実的にはどうであったのかは不明瞭であることを念頭において、冷静な目でドラマを見るように心がけるのが良いと思う。事実である部分と着飾っている部分と嘘とフィクション、逸話、神話、それぞれを自分で見分ける努力をしながら歴史を知っていくのが楽しいと思う。事実はわからないなりに、まぁこんなこともありえるかもなという感覚で史劇を見るというのは日本の戦国ドラマや時代劇と似た観点が必要になるのではなかろうか?