意思疎通
概要
死刑に値する基準とは何か?死刑は必要か?償うとは何か?犯罪者は更生するべきなのか?更生の判断とは何か?刑期は現状の刑法などの規定で正しいのか?犯罪者と被害者をとりまく社会の仕組みに改善の余地はどれだけあるのか?いろいろな問題がありますが、自分の思うところの処罰法をひとつ書いておきたい。
たとえば、ある被害者の身になって考えてみると、肉親が何者かによって意図的に殺害されたのだとしたら、残された自分は、その犯罪者にどのような刑を望むだろうか?どうしてほしいと考えるのだろうか?
もちろん、殺害された以上は、現代の科学では、殺された肉親は何をどうやってもかえってこない。お金をいくら積まれたって、お詫びを何回されたって許せないと思うに違いない。やえもすると、犯罪者(加害者)を殺してしまいたいと考えるかもしれないと想像するに至る。殺してしまいたいとは思わないにしても、誰かが代わりに加害者の命を絶って、とりあえずは許されない事をしたものが、被害者にかわって生きているという状態を打破して一定の心の落ち着きを求めるかもしれないし、それによって失われた価値に値するものをお金でもいいから欲しいと思うかもしれない。お金があったって、何もかえってこないが、弔うこともできるし、肉親が与えてくれたであろう価値を享受したいとも思うのかもしれない。
加害者の側から考えれば、代償は計り知れないので、金銭に関わる置き換えの議論はここではやめておく、可能性で考えればキリがない。ただし、加害者の刑罰とは一体どうあるべきなのかを考えれば、やはり被害者遺族の納得の行く形になるべきなのではないかと思う。遺族よりも被害者本人の気持ちが大事だが、死人にくちなし、被害者のことを思うのはやはり遺族だ。罪を憎んで人を罰せずとはいうものの、いざ、関係者の立場になれば人を憎みたくなるのが信条だ。とくに刑法199条の殺人の刑は重い。元の状態には絶対ならないからだ。傷害を負った場合も同様だ。すくなくとも被害者遺族のより肉親にあたる親等ってやつの数字が小さい人(密接な人)の意見は尊重されるべきだと考えてしまう。
であれば、刑罰・処罰は望まれるカタチで執行されて然るべきだ。ある遺族が、殺しやりたいとおもうのなら殺させてあげてもいいんじゃないかと思ったりする。ある遺族が、誰かが代わりに殺処分してほしいと思えば、それが叶ってもいいのではないか?そう思う。
但しだ。罪を憎んで人を罰せずとはよく言ったもので、殺されるからには殺されたなりの理由がある場合がある。これがややこしい。殺される理由が無いと確実に判断できる場合には遺族の望み通りでいいと思う。殺された理由がなんなのか?社会が悪いのか?被害者の生い立ちが不運だったからなのか?こういった判断が難しいから、現状の刑法や判例が採用されていると言っても良いと思う。考えに考えた末が今のカタチだ。もっと考えなければならないのかもしれないが、現状で考えに考えた末のカタチであるのは間違いない。自分がいざ、その当事者になる前に、客観的にこの現状の刑法や判例を議論することをしておかなければ、正しい刑罰・処罰のカタチは発展しない。
かわいそうに…と思うような事件は多々あるし、昨今ではそういったたぐいの情報も拾いやすくなっている。事実を冷静に分析し、より正しい刑罰や処罰のカタチをもとめていかなければならない。
自分はその議論に発展的な行動はしていないのだから、当事者になったとき、その無念さを自分の過去に照らし合わせて悔いるしかないのだろう。より平和で事件の起こらない社会になることを願うばかりだ。社会へのちょっとした貢献ができればたいしたものだが、どこまでできることやら。
これまでに無念を遂げた命の数々に祈りを捧げ、ご冥福あらんことを願う。